深夜の荒れ寺に突入。 一説には野良人の火の不始末から火災になり、移転しようとしたらしい。 しかし色々あって移転は中止となり、某寺に入れてもらう形で決着したらしい。 現代日本人にとって、寺とはどんな意味を持つのか。 宗教意識が希薄と言われる一方で、国内には無数の神社仏閣が住民の寄進で存在する。 奥にあるのは火伏せのお札。レンガの釜戸で煮炊きをしていた。 出家仏教徒にとって食事とは供物であり、供えられた食べ物という建て前がある。 1988年3月。バブルの入り口で時を止めた。 寺にすらサンタはやってくる。クリスマスはローマ教の祭りではなかったか。 天保14年の遺物。飢饉の頃の記憶が今に伝わる。 昭和15年の木魚。お経もリズムを取るための楽器。つまりお経はラップである。 黄泉の雛壇。この偶像に階級と権威と伝統が込められた。現代版なら横一列になるのか。 日本の宗教観は、そこにどんな有益な情報があるのかを見る。種類は無意味だ。 良き考えは受け入れる。偶像や宗派に拘るのは本来どうでもいい事だ。 しかし偶像は思想を凝縮し、後世に形として伝えるという役割を持つ。 空念仏を唱えることに意味はない。しかし繰り返しが思想の溝を深く刻んでいくのもまた真実。 ダルマはヒンドゥ、お札は神社、道教の像。排除する理由が無ければ排除しない文化。 供養とは、死んだ者の為にあるのではなく残された者や後世の安定の為にある。 つまり宗教者とはカウンセラーであり、その役割を第一としない宗教には意味がない。 宗教とは、脳内だけで何事も成し遂げようとする行為を指し、科学はその助力の為にある。
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